第五十四話「階段へ」

 思わず溜息が出た。
 
「どうしたの?」

 不思議そうに私の顔を覗き込むクロエに私は曖昧に微笑んだ。
 
「大方、この階段を登り切れるかどうか、案じているのだろう?」

 私の心境をズバリ言い当てたのはアーチャー。まさしくその通り。私の胸中で渦巻く不安の種は頭上に伸びる光の階段。月まで届いているでろう、その階段を私は登る切れる気がしなかった。
 
「大丈夫よ、凛。アレは実際に衛星軌道上の月まで伸びている訳じゃないの。『天の逆月』へ至る為の入り口だから、多少は登らないと行けないだろうけど……」

 分かってる。さすがに、衛星軌道上まで徒歩で行く事を不安視しているわけじゃない。私が不安視しているのは……、
 
「体力的な問題だ」
「はい?」
「だから、体力的な問題だ」

 アーチャーの言葉にクロエは可愛く小首を傾げる。
 
「私、運動神経鈍くて……」
「……なるほど」

 呆れたように目を細めるクロエ。肩身が狭い……。
 まったく、どうして階段なのかしら。エスカレーターとか、エレベーターとかじゃ駄目なのかしら。不満を心中で並べ立てていると、フラットが私の肩をポンと叩いた。
 
「大丈夫。無理そうなら、俺が背負ってあげるからさ」
「ありがとう。でも、何とか、頼らずに済むよう、頑張るわ」

 頬をパンと叩いて、気合を入れる。階段くらいで弱音を吐いてる場合じゃない。これから私はイリヤの尻を叩きに行かなきゃいけないのだから……。
 
「準備はいいわね? みんな」

 フラット、クロエ、ライネス、バゼット、慎二、ルーラー、アサシン。それぞれが頷くのを確認し、私は最後にアーチャーに顔を向けた。

「そろそろ、時間のようだ」

 彼の見つめる先、遠くの空に一筋の光が見える。恐らく、ライダーだ。限界を察し、作戦通りに離脱したのだろう。
 私達の視線はバゼットに集まる。バゼットは呆れたように苦笑いを浮べ、首を横に振った。誰もが予想していた通り、ランサーはあの場に残ったらしい。
 誰も彼を非難したりはしない。ランサーとて、英霊であり、サーヴァントだ。何がマスターにとって都合が良いかを最優先に考えた筈。その結果、彼はライダーと共に離脱する事を良しとせず、あの場に残った。
 
「行きましょう」

 バゼットの号令に皆が頷き、冬木ハイアットホテルの入り口から中に入っていく。
 私は擦れ違い様にアーチャーに声を掛けた。
 
「ありがとう。あなたと出会えた事は私の運命の中で一番の奇跡だったわ」
「……いいや、それは違う」

 凛の言葉を否定し、アーチャーは言った。
 
「お前の運命はまだ決していない」
「アーチャー……?」
「まずは、己が意思を貫いて来るがいい。何者にも、お前の邪魔はさせん」

 双剣を抜き放ち、アーチャーは言う。
 
「往け。我がマスターよ。そして、一つだけ頭に刻み込め」
「なに?」
「お前の運命に如何なる暗雲が立ち込めていようと、臆するな。お前には我がついている。それを忘れるな」

 心が震えた。全身に力が湧いて来る。アーチャーの言葉は私が無意識に感じていた怖れや不安を拭い去った。
 私には彼が居る。史上最強の大英雄が私と共にあり、私の為に力を振るってくれる。なら、何を怖れよと? 何を不安に思えと? 圧倒的な光を放つ存在が私を支えてくれているおかげで、如何なる闇も私の心に存在出来ない。
 
「行って来るわ、アーチャー!」
「ああ、行って来い、凛」

 私は最後に彼の姿を眼に焼き付ける為に振り返った。そこに在るのは無限を従え、やって来る自らの未来へ刃を構える彼の姿。
 もう一度、心の中で感謝の言葉を告げ、私は今度こそ振り返らずに皆の後を追った。
 
「|Anfang《セット》――――」

 魔術回路を起動し、刻印に魔力を流し込む。階段に到達すると同時に私は羽根が生えたかのように軽い足取りで登り始めた。
 
「遅いぞ、凛」

 ライネスは私が追いつくのを確認すると同時に速度を上げた。他の皆も全身を魔力で強化し、スピードを上げていく。
 
「大丈夫ですか?」

 ルーラーが問う。
 
「うん。私は大丈夫よ、ルーラー」

 キッパリと言う私に彼女は驚いたように目を丸くした。
 
「それが本来の貴女なのですね……」
「え?」

 首を傾げる私にルーラーは「いえ」と首を振って、顔を背けた。
 
「急ぎましょう、凛」
「ええ!」

 階段を登り切り、屋上に出ると同時に私達は目の前の光景に圧倒された。
 天へ繋がる光の階段。そのあまりの美しさに言葉を失い、眼下で繰り広げられる戦いに鳥肌が立った。
 地上ではアーチャーが一人、無限を相手に戦っている。無限の武器と無双の技と無敵の力で……。
 
「行くわよ、みんな!」

 私は皆の意識を無理矢理地上から引き剥がした。地上を案じる理由は無い。あそこには彼が居る。なら、誰も私達を追ってなどこれない。
 いち早く、光の階段に足を掛けた私を見て、皆も徐々に階段に向かって歩き出した。けれど、その足取りは重い。地上に群がる敵の軍勢に意識を裂かれてしまっている。
 
「問題無いわ」
「凛?」
「地上はアーチャーに任せた。なら、何の問題も無い。彼が負ける事なんてあり得ないわ」
「し、しかし……、あの数だぞ」

 珍しく、ライネスが声を震わせている。けれど……、
 
「アーチャーは負けない!」

 私は断言した。
 
「相手が無限だろうと関係無いわ。だから、私達は私達のやるべき事をするの!」
「……分かった」

 階段を駆け上がる。強化した肉体で猛スピードで駆け上がる。
 手摺りも無く、足場も狭い光の階段。けれど、恐怖は無い。私は私の意志を貫く。その為にこんな場所で手間取っている暇は無い。
 イリヤに会う。そして、彼女を助ける。もし、彼女がここから出るのを嫌がっても、尻を引っ叩いてでも追い出す。だって、ここに彼女の幸福なんて無い。
 
「イリヤ……」

 脳裏に浮ぶのは彼女とフラットを探して歩き回った時の事。不安でいっぱいの顔をする彼女の為に力を尽くしたいと思った。
 あの時だって、そうだった。大聖杯の前で呪いに飲み込まれる寸前、私は見た。不安で身を震わせるイリヤの姿を――――。
 
「イリヤ!」

 今まで、誰かを助けられた事なんて無かった。
 十年前、友達が両親共々、殺人鬼に殺されるのを黙って見ている事しか出来なかった。妹が苦しんでいる事も知らずに手遅れになるまで何もしなかった。
 母も父も守れなかった。兄弟子が道を踏み外すのを止められなかった。士郎が綺礼に攫われる事態を予期する事も出来なかった。
 慎二を死なせてしまった、イリヤを止める事も出来なかった。

「イリヤ!」

 でも、今度は絶対助ける。今までとは違う。ただ、成り行きに任せ、倒れ行く人々の姿を傍観していた今までとは違う。
 今は確かな意思がある。アーチャーと共に過ごす中で培った意思がある。
 イリヤを救いたいという意思がある。
 
「イリヤ!!」

 突然、景色が一変した。
 
 第五十四話「階段へ」

 彼の周囲には不思議な香が漂っていた。際限無く群がる魑魅魍魎達は香の誘惑に嵌り、自らに課せられた目的を見失う。
 無間地獄に垂れた一筋の蜘蛛の糸。そこを往く者共を排除せよ。そんな、主に命じられた役割を見失い、彼らは集う。
 試しに数えようとして、止めた。千や二千では無い。万を越える軍勢。それらが見据えるは一の勇。もはや、それは戦いでは無く、単なる虐殺に過ぎない。そもそも、一人の人間を殺すなら、三人も居れば事足りる。不安なら、十人程度用意しておけばいい。それで、どんな勇猛な勇者も膝を屈する。
 にも関わらず、万を越える軍勢が一人を殺す為だけに集結した理由は一つ。
 
「本来であれば、群の頭をすげ替えるが定石なのだが……、それは凛の仕事だからな」

 王はやれやれと肩を竦める。
 
「虫けらの駆除など、王の仕事では無いのだがな。まあ、仕方あるまい。今の我はサーヴァントだ。マスターの為、下働きに徹するとしよう」

 王がその赤眼をもって、軍勢を睨み付ける。それぞれの個が無双の英雄の皮を被っているにも関わらず、加えて、元々理性すら持たぬ癖に彼らは恐怖に竦んだ。
 目の前の圧倒的な脅威に対し、彼らはそれぞれ周囲に協調を呼び掛ける。眼前の敵は個では到底太刀打ち叶わぬと本能が警鐘を鳴らしているが故に。
 
「反魂の香など、こやつ等には過ぎた贅だが……、まあ、未来への投資としておくか」
 
 軍勢が動く。強大な脅威に対して、彼らは蒸発した筈の理性の一部を取り戻す。闇雲に向かって行くだけでは勝てぬ。結束し、自らの武器の性能を最大限に発揮せねばならぬ。彼らはそう思考し――――、
 
「では、死ぬが良い」

 死んだ。王の言葉通りに彼らは死んだ。虚空から現れる無数の剣、槍、斧、槌、鎌によって、百を越える軍勢が死んだ。
 瞬間、彼らの思考は一瞬にして白紙に戻る。あの怪物を前に思考を巡らせる余裕など無い。一斉に攻撃を仕掛け、数で圧倒する。
 殺到する集団に対して、アーチャーのサーヴァントは跳んだ。真上への跳躍。それはあまりにも愚策だった。空中で人間は自由に動く事が出来ない。軍勢の武器の矛先が空中を舞う彼に向く。そして――――、
 
「ッハ!」

 アーチャーは空中で再び、跳躍した。殺到した槍や剣がぶつかり合う金属音のみが響き、理性無き彼らの視線は条理を覆すアーチャーの挙動に向けられた。
 そして、気付く。アーチャーの足に見慣れぬ飾りが付随している事に。それは黄金の翼。英雄・ペルセウスがヘルメスより賜った天空を自在に駆け回る宝具。名をタラリアという。
 空中を駆るアーチャーに地上を這い回る彼らが抗う術は無い。
 
「燃え尽きろ」

 彼が取り出したのは剣。赤く輝くルーンが刻まれた剣。彼が振るうと、剣は赤々と燃え上がり、地上の軍勢を焼き尽くした。
 
「砕き伏せよ」

 次いで彼が取り出したるは雷を纏う巨大な槌。融解し、マグマと化した大地を平然と疾走するサーヴァント達を迎え撃つ。
 それは凛達がまだ冬木ハイアットホテルの階段を登っている間に起きた出来事である。あまりにも圧倒的な力の差。もはや、無限という言葉は無意味。このまま戦いが続けば、彼らは為す術無くアーチャーに滅ぼされるだろう。
 
「ほう……」

 変化は突然だった。
 
「キャスターめ。いよいよ焦り始めたか」

 軍団の動きに変化が生じた。ライダー達が一斉に己がヒッポグリフを召喚し、アーチャー達が飛行宝具を取り出したのだ。
 
「少しは面白くなって来たな」

 嗤い、アーチャーは背中から翼を生やした。透き通るような白い翼。それは勇者・イカロスが父・ダイダロスより賜りし大いなる翼。一度、翼を羽ばたかせれば、音速を遥かに凌駕するスピードで天を舞う。
 戦場は地上から天空へと移り、更なる激化の一途を辿る。

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