幕間「始まりと終わりの物語」 パート8

 一人の少年の話をしよう――――。
 少年はどこにでも居る普通の男の子だった。優しい母と厳しい父に愛され、順風満帆な人生を送る筈だった彼の運命を大きく捻じ曲げたのは一人の男の欲望。
 少年の名は士郎。男の名は綺礼。二人の出会いは十年前に遡る。
 
『君が士郎君だね?』
『えっと……』

 柔和な笑みを浮かべる神父服の男に士郎は戸惑いを見せた。彼はこれから友達と公園でサッカーをする予定だったのだ。ところが、家から出て直ぐに見慣れぬ服装の男に話しかけられた。彼の心の内は約束の刻限が迫っている事に対する焦りと見知らぬ男に話しかけられた事に対する動揺によって満たされていた。

『おじさん、誰?』
『私は言峰綺礼と言う。丘の上に教会があるだろう? そこで神父をしているんだ』
『ふーん』

 どうやら、怪しい人では無いらしい。でも、そろそろ急がないと友達が待っている。士郎は礼儀正しく頭を下げた。
 
『俺、友達とサッカーの約束があるんで、失礼します』

 男に背を向け、士郎は走り出した。そんな彼に綺礼は『ああ』と応えた。
 
『しっかりと体を動かしてくると良い』
『はーい!』

 この時、士郎の中で綺礼に対する疑いの気持ちは完全に晴れた。
 だから、家に帰って来た時、居間で彼が寛いでいても『お客さんだったのか……』程度の考えしか浮かばなかった。
 何はともあれ、綺礼は両親に用事があって来たのだろう。邪魔をするのも難だからと、士郎は静かに自室に戻った。机に向かい、学校で出た宿題に手をつける。算数のドリルと漢字の書き取りだ。
 しばらくして、士郎はいつしか自分が居眠りしていた事に気がついた。宿題は何とか終わっている。けれど、時計を見ると11時を回っていた。お腹がきゅるきゅると鳴る。
 
『お腹空いた……。ママ、どうして呼びに来てくれなかったんだ』

 不満に唇を尖らせながら、士郎は廊下に出た。すると、廊下はまるで別世界のように冷たく静まり返っていた。
 
『……ちょっと、怖いな』

 士郎は知らず知らずの内に手を部屋の入り口付近に立て掛けてあった特撮番組の主人公の剣に伸ばしていた。
 
『ふ、ふん! お化けなんているわけないんだ!』

 士郎は数億年もの間、絶望の大陸に封印されていたという伝説の剣を手に廊下に出る。
 
『怖くなーい。怖くなーい。怖くないったら、怖くなーい』

 恐竜戦隊ジュウレンジャーのテーマを口ずさみながら士郎は廊下を歩く。
 すると、居間の明かりが点いたままになっている事に気がついた。
 
『なーんだ、ママ起きてたんじゃないか! もう! どうして起こしてくれなかった……』

 居間の扉を開き、中に入ると、士郎は目を丸くした。
 そこには帰宅した時同様、綺礼の姿があった。彼は何かを手で弄っている。サッカーボールだろうか? 士郎は不吉な悪寒を感じながら中に入った。
 
『お、おじさん……』
『おや、起きたのかね』

 ニッコリと微笑む綺礼に士郎は少しホッとした。
 
『おじさんは何をしてるの?』

 士郎が問い掛けると、綺礼は言った。
 
『君のお母さんと話をしているんだ』
『ママと? でも、ママはどこに居るの? トイレ?』

 士郎が首を傾げると、何がおかしいのか、綺礼は肩を震わせて笑い出した。
 
『居るじゃないか、ここに』
『え? どこに居るの? 隠れてるの?』

 キョロキョロと辺りを見回す士郎に綺礼は『違う違う』と首を横に振った。
 
『君のお母さんは――――』

 綺礼は両手で持っていたボールを士郎にパスした。それを危うい手つきでキャッチした士郎は奇妙な感触に首を傾げ、ボールに視線を落とした。
 
『――――そこに居るじゃないか』

 士郎の意識はそこで途切れた。悲鳴を上げる暇も無かった。あまりにも大き過ぎる衝撃に心の|安全装置《セーフティ》が起動したのだ。
 
『これがあのアーチャーの若かりし頃か……。今はまだ、何にも染まっていない純白の心。私が育てたら、果たして、どのように成長するのか、実に興味深い……』

 綺礼は少年を抱き抱えると、静かにその場を後にした。
 地元の新聞に士郎とその家族が失踪した事が載せられたのはそれから一週間も後の事だった。一家の知人や警察が懸命に捜索したにも関わらず、彼らの行方を示す手掛かりは見つけられず、やがて人々はその事件を忘れた。
 
 それから十年。少年は呪いと共に生きて来た。綺礼はエミヤシロウが衛宮切嗣と出会った時の状態を再現しようと、彼に前回の聖杯戦争の決着の折に手に入れた聖杯の断片を植えつけた。
 彼はエミヤシロウという英霊の境遇を又聞きでしか知らなかった。故にエミヤシロウが聖杯によって齎された災厄によって心をリセットした理由を聖杯の断片に犯されたからだと推理した。それ故の行動だった。
 嘗て、己が好敵手と定めた男と自らのサーヴァントの手によって落としかけた命を救った聖杯の欠片が士郎にどう作用するのかにも興味があった。死を救う霊薬が健常な生者の肉体をどう変異させるのか僅かに期待を覗かせながら、綺礼は士郎の胸に己の内から黒い泥を移植した。
 結果は実に面白いものとなった。幼い肉体は泥によって汚染された。赤銅色の髪と色白な肌は黒く染まり、彼の心は綺礼の目論見通りに壊れた。結果は上々と言えた。
 綺礼は士郎を育てた。端から見ている限り、彼は息子を心から愛しているように見えた。深い愛情を注ぎ、士郎の成長を見守る綺礼の姿は周りの者に聖職者に相応しい魂の輝きを幻視させた。
 そんな彼が病床に着いた理由は簡単だった。士郎に自らの生命線である聖杯の断片を移植した事で停滞していた寿命が少しずつ減り始めたからだ。そんな彼を士郎は甲斐甲斐しく世話した。
 慈悲深き神父に懸命に奉仕する少年。周りの者にはそう見えた。事実、少年の看護に神父に対する害意は一欠けらも見えなかった。食事は病床の神父を気遣い、食べ易さを追求したものを少年自らが作り、風呂に入れ、便の始末まで他人に任せずにこなす。
 そんな姿を見て、少年の神父に対する愛を疑う者は一人も居なかった。けれど、当の本人である士郎は実に冷め切っていた。
 士郎は神父に対して何も感じていなかった。ただ、綺礼の持つ毒性を他者に味合わせない為に全ての世話を一手に引き受けているに過ぎない。そして、そんな彼を綺礼は絶望に満ちた顔で見上げる。
 |衛宮切嗣《正義の味方》に育てられた士郎は|衛宮士郎《正義の味方》になった。ならば、己に育てられた士郎は|言峰綺礼《悪の権化》になる筈だと思った。けれど、成長した士郎は何も育まなかった。怒りも悲しみも喜びも無い。ただの空っぽな器。それが言峰士郎だった。
 
『……私は空っぽだったのか?』

 それが綺礼の遺した最後の言葉だった。士郎は誰も愛さず、誰も憎まない。他者の幸福も不幸も等しく無意味。そんな士郎を見て、綺礼は死の間際に何を思ったのか、誰にも分からない。
 士郎は彼の最期の言葉にも眉一つ動かさなかった。ただ、彼の仕事を引き継ぐ準備を手早く進めなければという合理的な思考しか無かった。
 彼がキャスターを召喚したのも聖杯戦争を管理するという業務を効率化出来ると踏んだからだった。サーヴァントを使えば、違反者を罰する事も戦いによる被害の拡大を防ぐ事も容易と考え、浮かび上がった参加資格を躊躇い無く使った。
 
 そして、今、彼はここに居る。冬木市に聳える円蔵山の地底深く。言峰士郎は自らのサーヴァントによって幽閉されていた。
 否、正確には少し違う。彼は目覚めの時を待っているに過ぎない。
 
「さあ、そろそろ目覚めの時だよ、マスター」

 ◆
 
 目が覚めて、城の中を歩いていると、異変に気がついた。
 どこにも彼が居ない。彼の相棒の姿も見えない。徐々に焦りを覚え、城中を駆け回るイリヤを見咎めたセラから昨晩、フラットが情報収集の為に外に出たとの情報を得た。
 セラに車を出させ、急ぎ街へ出る。イリヤの脳裏に浮んだのは両親の死に際の映像。その光景にフラットの姿が重なり、イリヤは恐怖した。
 
「フラット! どこに居るの!?」

 彼の名前を叫びながら走り回る。道行く人々から好奇の眼差しを向けられるが、彼女にそれらを気にしている余裕は無い。どこに向かったのかも分からない彼を見つけ出すのは困難だと分かっていながら、それでもイリヤは走り続けた。
 そんな彼女を呼び止めたのはアーチャーを引き連れた凛だった。
 
「どうしたのよ、イリヤ?」

 汗だくになりながら走り回るイリヤに凛は目を丸くしていた。
 
「凛! フラットを見なかった!?」
「フラット? いいえ、見てないけど……。どうしたのよ?」
「居なくなっちゃったの……。見つからないの……」

 不安でいっぱいだったのだろう。話しながら涙を溢れさせるイリヤに凛は道理に合わない行動を取った。
 本来、敵対すべき相手。突き放すのが普通。むしろ、これを好機としてイリヤをこの場で殺す事こそ、聖杯戦争に参加するマスターが取るべき行動。
 にも関わらず、凛はイリヤを優しく抱き締めた。そこに伴う感情は何だろう? 境遇が似通っているが故の同情なのか、先日の交流が育んだ絆なのか、凛自身にも分からない。
 分かるのは、イリヤの涙を自分が見たくないと思っている事実。
 
「大丈夫。大丈夫よ、イリヤ。彼の事だから、きっと、どこかをぶらついているだけに決まっているわ」
「……本当?」
「ええ、きっと。私も一緒に探してあげる」

 まるで幼子のように縋る目付きを浮かべるイリヤに凛は言った。
 
「……やれやれだな。心に余裕が生まれた証拠なのだろうが、まったく」
「アーチャー?」

 肩を竦めながらアーチャーは言った。
 
「だが、その決断を肯定しよう。道に惑いし民を導くも王の務めよ。凛、貴様も王道の何たるかを掴めて来たようだな」
「……知らないわよ」

 唐突な褒め言葉に凛は頬を赤く染め上げた。
 
「ほ、ほら、イリヤ! 泣いてないで、一緒に探すわよ!」

 ハンカチをイリヤの目下に押し当てながら、凛は言った。
 
「……ありがとう、凛」
「べ、別に……。ほら、行くわよ」

 凛はイリヤの手を取って歩き出した。涙ぐみながら、イリヤは凛に手を引かれて歩き出す。
 
「……そっか」
 
 歩き回っていると、不意に店の窓ガラスに映った二人の姿が凛の目に映り込んだ。
 その光景を見て分かった。どうして、彼女を放っておけなかったのか……。
 
「……あはは」

 乾いた笑い声が零れる。鏡に映る光景はまるで、幼い頃の自分と妹。
 ああ、駄目だ。その事を考えてはいけない。
 分かっているのに、一度浮かべてしまった思いを消し去る事は出来なかった。
 
「イリヤ。ちょっと休もうか? 甘い物でも食べて、それからもう一度探さない?」
「……うん」

 手遅れだ。自分に彼女は殺せない。どうあっても、彼女と戦う事は出来ない。だって、彼女の姿が|妹《さくら》と重なってしまう。
 やはり、あの時、家に招待したのは失敗だった。あの時、放っておくべきだった。こんな致命的な感情を抱く前に彼女を倒すべきだった。
 
「大丈夫だから、元気出して、イリヤ」

 声に愛情が篭ってしまう。死んでしまった妹に向けるべき愛がその矛先を見つけてしまった。抱き締めたくてうずうずする。涙が溢れ、流れ落ちる。
 
「どうしたの……、凛?」

 心配そうに見上げてくる瞳を凛は愛おしそうに見つめ返した。
 
「何でもないわ、イリヤ。それより、好きな食べ物はある?」
「えっと……、ホットケーキが好き」
「ホットケーキね。オーケーよ。あそこのカフェにならあると思う」

 隣を歩くアーチャーは何も言わない。咎めるでも、肯定するでも無く、黙って傍に立ち続けている。
 
「あまり、もたもたしているわけにもいかんぞ。夜にはセイバーとの対決が待っているのだからな」

 カフェに入り、特大のパフェを頬張りながら彼は言った。
 
「分かってるわよ。それまでに何とか見つけ出すわ。ねえ、あなたの宝具で何とかならないかしら?」
「甘えるな。自分で努力しろ」
「ケチ……」
「ケチとは何だ! 努力せずに他人任せにばかりしていては駄目になるぞ! 安心しろ、どうしても見つからないようならば手を貸してやる」

 アーチャーの言葉に凛とイリヤは二人揃ってパーッと顔を輝かせた。
 アーチャーが力を貸してくれれば、フラットを見つけるなんてお茶の子さいさいの筈だ。
 
「ただし、我が協力しても良いと思う程度の努力を見せろ。それが条件だ」
「イ、イエッサー!」
「りょ、了解であります!」
「……なんだ、その返事」

 呆れた表情を浮かべるアーチャーにお礼を言いながら、凛とイリヤは急いでホットケーキを口に詰め込んだ。
 
「喉を詰まらせるなよ……?」

 アーチャーが言った傍から苦しげに喉を押える二人に彼は溜息を吐いた。
 
「さっさと水を飲め!」

 ◆
 
 空が茜色に染まり始めた頃、イリヤと凛は円蔵山の麓に来ていた。
 
「後、探してないのはここだけ……」

 キャスターの根城を前に凛とイリヤの表情に緊張が走る。
 
「アーチャー。先頭に立ってもらえる?」
「任せておけ」

 鎧姿に変身し、前に出るアーチャーにイリヤもバーサーカーを呼び出した。
 背後に現れた巨人に凛は顔を引き攣らせた。今は味方の筈と思いながらもその身が発するプレッシャーは尋常じゃない。
 
「バーサーカー。殿をお願い。凛の事も全力で守って」

 了承のつもりなのか、バーサーカーは雄叫びを上げた。とても恐ろしい。
 四人は石畳の階段を上がる。途中、凛の為に休憩を挟みながら山門に辿り着くと、そこには一人の男が居た。
 
「昨晩に続き、今度は別の顔が四つか」
「貴様は?」
「佐々木小次郎。この山門を守るしがなき亡霊よ。さて、此処を通ると言うならば刀を抜かねばならぬが?」
「安心しろ。抜く間も無く彼岸へ送り返してやる」

 刀に手を掛ける亡霊と背後の揺らぎから刀剣を現出させるアーチャー。一触即発の雰囲気を醸し出す二人の間にイリヤは慌てて割って入った。
 
「ま、待って! ねえ、昨晩に続きって、どういう事? もしかして、誰かが此処に来たの?」
「然様。見目麗しい赤毛の少女を連れた少年が一人参った。それがどうかしたか?」

 間違い無い。赤毛の少女とはライダーの事で、その少年はフラットだ。
 
「フラットはどこ!? 隠し立ては許さないわ!」

 イリヤの感情に呼応し、バーサーカーが唸り声を上げる。
 
「どこ……、と聞かれてもな。昨晩、あの少年は我が主との対面を望み、なにやら交渉を行っていた。だが、夜明け前には再び山門を抜け、山を下って行った」
「嘘じゃないでしょうね!?」
「嘘など吐かぬさ。ただ、私も詳しくは見ていなかったが、どうやらここを下った後に何者かと争う音が聞こえた」
「争う音?」
「言ったであろう、詳しくは分からぬと。あの少年を探しているのなら此処には居ない故、去るが良い」
「ッハ、関係無いな。わざわざこんな山の中まで足を運んだのだ。挨拶代わりに――――」

 肩から黄金の双剣を抜くアーチャーに遥か後方から凛が叫んだ。

「アーチャー! 早く行くわよ!」
「って、待て! 我を置いて行くな!」

 凛達はとっくの昔に階段を下り始めていた。

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