幕間「始まりと終わりの物語」 パート1

 十年前、男は大切なものを失った。代わりに失う筈だった大切なものを失わずに済んだが、男にとって、その喪失感は埋め難いものだった。
 彼が背を向けたのは己の理想。遠い昔、まだ、世界の残酷さを知る前、彼はどこにでも居る元気の良い少年だった。故郷を遠く離れ、南海の島に移り住み、少年は変わり映えの無い穏やかな日々を過ごしていた。
 しかし、その日々はボタンを掛け違えたような些細な出来事によって一変する。
 一人の少女の善意が一つの島を滅ぼした。そして、代わりに一人の修羅を生み出した。少年は島に現れた女と共に島を離れ、己の理想を遂げる為に研鑽に励み続けた。同じ悲劇を繰り返さない為、少女との約束を守る為。
 心を冷たい鉄に変え、理想のためにたくさんの人を殺した。正義の味方になりたい、という理想のために、多くの悪を滅ぼし、小数を切り捨て、大勢の人間を救い続けた。その果てに彼が辿り着いた答えは単純明快。人の手では世界は救えない、というごく当たり前の答えだった。
 当然だろう。一人の人間が救える数などたかが知れている。世界中の人間が手を取り合おうとも、零れ落ちる人間は必ず存在する。大切だった家族を切り捨て、辿り着いてしまった答えに絶望し、彼は一つの奇跡に縋る。聖杯という、あらゆる願いを叶える万能の願望機に願いを託した。
 彼はその戦いを人類最後の流血とする為に再び家族を切り捨てる覚悟で挑んだが、その覚悟は一つの出会いによって崩壊する。聖杯を巡る争いの中で相棒となった英霊、キャスターのサーヴァント・モルガン。
 彼女は彼の家族を救った。それが横道一つ、湾曲一つ無く真っ直ぐであった彼の道を大きく歪める事となり、聖杯戦争を戦い抜いた末、彼は理想を捨て、家族を選んだ。その瞬間、彼は死んだのだ。
 彼は今まで人々を生かす為に在り続けてきた。その誓いを曲げ、家族を生かす為に人々を切り捨てる選択肢を選んでしまった。己の生き方を否定した男に未来など無い。そんな事、分かっていた筈なのに、男は家族を守る為に戦い、大きな犠牲を払った上で死んだ。
 結局、己の理想を裏切った罪は男自身を殺した。娘の前で冷たくなる己の身を彼自身がどう思ったのかはわからない。最後に彼はこう言い残し、この世を去った。
 
『すまない、イリヤ……』

 幕間「始まりと終わりの物語」

 私はいつも見る悪夢から目を覚ました。父母の最期の姿はどんなに振り払おうとしても瞼の裏から消えてくれない。肉体を散々弄られているにも関わらず、どうしてこの光景だけは消えてくれないのだろう。いっそ、忘れてしまった方が楽なのに……。
 
 ――――でも、忘れてしまったら、もっと苦しいよ。

 この体に宿るもう一つの意思が私を宥めるように言った。まるで、口から発した自分自身の声のようにハッキリとした彼女の声が頭の中に響く。
 彼女とこんな風に話が出来る日が来るとは思わなかった。初めて、彼女に話し掛けられた時、私はパニックのあまりついに自分が狂ってしまったのだと思った。まあ、ある意味、その考えは正しかったのだけど……。
 私の症状は解離性同一性障害。所謂、多重人格というやつらしい。
 どうも、私は元々そういう素質があったらしい。。1982年にアメリカの心理学者ウイルソンとバーバーが『Thefantasy-pronepersonality:Implicationsforunderstandingimagery,hypnosis,andparapsychologicalphenomena』という論文を発表している。これによると、解離という心理現象を引き起こす最も大きな要因の一つ、催眠感受性が高い者は同時に強い空想傾向にあるとされている。
 アインツベルンに囚われる前の私は人並み以上に夢見がちな少女だった。アニメや漫画が大好きで、よく妄想を膨らませていた。例えば、ある日突然、空から魔法のステッキが降って来て、魔法少女に変身し、空を飛んだり魔法を使ったりしながら人知れず事件を解決する自分をよく妄想していた。
 恥ずかしい話だけど、時々、妄想と現実を誤認してしまう事もあった。
 アインツベルンに囚われておよそ四年。継続的かつ重度のストレスを抱えながら、悪夢から逃れる為に幸福な自分を妄想し続けた結果、私の中に現れたのが彼女だった。
 イマジナリーフレンドという現象が最も近いだろうとの事。空想力豊かな幼児期に発現が多く確認されているものらしい。イマジナリーフレンドそのものは珍しい現象では無く、一般的に二割から三割の人がこの現象を体験している。
 私のソレは解離の条件が重なり、交代人格に変異してしまったもの。本来、彼らの役割は文字通り、空想上の友人というものだけど、交代人格にまで変異した彼女の役割は私の家族になるというもの。
 心の均衡を保つ為に彼女は現れた。自分の中にもう一人、別の人格が宿っている。それはとても奇妙な感覚だった。彼女は常に穏やか、かつ優しく接してくれたけど、私は刺々しい態度を取り続けた。
 彼女との関係が変わったのは聖杯戦争が再開する事を告げられた日の事だった。私にとって、全てを奪った元凶たる災厄。それがまた始まる。私はそれに参加しなければならない。
 恐怖と哀しみと怒り。複雑に絡み合う感情に悶え苦しむ私を彼女は懸命に励まし続けてくれた。その日を境に私は内に宿るもう一人の人格を家族として受け入れるようになった。
 私は彼女にクロエと名を付けた。
 
「お嬢様、お館様がお呼びでございます」
「今起きるわ、セラ」

 いつものように世話係のホムンクルスが起こしに来た。私は彼女の事が少し苦手だけど、クロエは気に入っているみたい。表面上は冷たい印象があるけど、言葉の端々や行動の一つ一つに優しさや愛情が垣間見えるらしい。本当かしら?
 ベッドから抜け出して欠伸をかみ殺す。窓に映った自分の姿にげんなりする。度重なる調整を受けた結果、私の体は成長を止めてしまった。元々、あんまり背の高い方じゃなかったから、十八にもなって、未だに小学生みたいな体躯。
 溜息を零しながら準備する。いよいよ、サーヴァントを召喚する日が来た。
 実の所、十年前の聖杯戦争の事を私は殆ど覚えていない。それと言うのも、父である切嗣が私を魔道から遠ざけようとした為だ。幼少の頃の記憶というのは時が経つにつれて薄れていくもので、彼によって魔道から遠ざけられ、普通の少女としての知識ばかりを学ばされた結果、幼い頃の魔術の訓練の記憶や聖杯戦争の記憶をほぼ忘却してしまったのだ。
 その為に一から覚え直すのは酷く大変な事だった。それが父なりの愛情だったのだと理解してはいるが、素直に受け入れられない自分は相当に捻くれてしまったらしい。調整や教育が苛烈だった理由の一旦は私の無知さにもあった筈だ。
 メイドのセラに再三に渡って早くしろと催促され、嫌々ながら準備を終え、アハト翁の待つ聖堂へと足を向けた。
 アインツベルンの千年に及ぶ妄執が漂う陰鬱な雰囲気の聖堂にセラを伴い足を踏み入れると、聖堂の祭壇に巨大な物体が安置されているのが目に入った。その前にアハト翁が立っている。

「来たか、イリヤスフィールよ」

 頭を垂れると、アハト翁は視線を背後の祭壇に乗る巨大物体に向けた。

「令呪は宿っておるな?」
「はい」

 魔術回路を励起させ、令呪に魔力を流し込むと全身を隈なく伸びる紅の模様が浮かび上がる。その様子にアハト翁は満足気に頷いた。
 祭壇に置かれているのはどうやら、どこぞの神殿の柱を削り出した物らしい。サーヴァント召喚の憑代としては最高クラスの媒体となるだろうとアハト翁は語った。
 
「召喚に際し、呪文の中に一節を付け加えてもらう」

 特に反論する事も無く、アハト翁の言葉を受け入れた。バーサーカーを召喚する一節を付け加えろと言う、老人の命令を。
 無論、バーサーカーのクラスを召喚する意味は理解している。今までの四度に渡る戦争において、悉くマスターが自滅したクラスである事も理解している。
 
「了解致しました」

 それを理解した上で頷いた。何故なら、この身がバーサーカーのクラスに対応出来るように調整されて来た事も理解しているからだ。
 アハト翁は前回の聖杯戦争で切嗣に裏切られた事で、サーヴァントの意思の存在によるマスターの精神への干渉の危険性を考慮する事にしたらしい。理性を失った狂戦士ならばマスターに対し、精神的な干渉は出来ないからだろうと、イリヤはもうずいぶんと前に気付いていた。
 既に用意された召喚陣の上に立ち、イリヤは教えられたとおりに呪文を唱え始めた。

「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 聖杯戦争に参加するにあたり、私とクロエは一つの決意を固めている。
 アハト翁は気付いていないだろう、私の企みの為に彼が用意した策は役に立ってくれるだろう。彼は本当に詰めが甘い。前々回も前回も彼はそれで同じ過ちを繰り返している。
 
「告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 循環する魔力の感触にこの六年間を振り返った。痛みも苦しみももはや慣れ親しんだものとなった。キャスターの遺したホムンクルス技術を取り入れ、キャスターによって調整されたこの身を更にアハト翁は弄り回した。
 
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」

 泣くのも飽きた。
 怒るのも飽きた。

「されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者」

 代わりに心の同居人を得た。無二の親友、大切な家族。彼女と居れば何でも出来る気がする。
 父母の死に様を思い出すのは今でも辛いけど、それもいつかは乗り越えて見せる。

「汝三大の言霊を纏う七天」

 聖杯戦争。父と母が出会う切っ掛けであり、父がアインツベルンを裏切り、命を狙われる原因となった争い。これを勝ち抜けば、過去を清算出来る。
 決意を胸に腹に力を篭め、イリヤは最後の一節を口にした。

「抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」

 そして、私は彼と出会った。鋼の肉体は何者の攻撃も通さず、その剛力は全てを捻じ伏せる。あらゆる怪物達を薙ぎ倒した神話に語られし大英雄。
 彼の名は大英雄・ヘラクレス。

 数ヶ月後、バーサーカーを連れて、私は日本を訪れた。世話役兼お目付け役として、メイドを二人従えて。
 
「お嬢様、まずは冬木郊外にありますアインツベルン城へ向かいます」

 セラの感情の無い声に「うん」と気の無い返事を返し、冬木の街並みを飛行場の駐車場に用意されていた車の窓から眺めた。
 彼女達がついて来た理由はいくつかある。聖杯戦争中の身の回りの世話をする存在が必要だった事と私の裏切りを抑制、阻止する事が目的だ。十年前に切嗣が召喚したキャスターによる調整によって、私の精神には強力なセーフティーが掛けられ、アハト翁ですら肉体は改造出来ても精神には手が出せなかった。
 それが原因で父の死に様を毎晩夢に見る羽目になっているのだが、父と母との幸せだった頃の思い出を消されずに済んだ事には感謝している。
 そう言った理由で精神に直接手を加える事が出来なかったアハト翁はセラとリーゼリットという二人のホムンクルスを監視に付ける事にしたのだ。少しでもアインツベルンに反旗を翻そうとしたり、戦いを放棄しようとすれば、肉体に施された仕掛けが様々な手段を講じて私を再びアインツベルンのマスターに戻そうとする。
 その判断を下すのがセラの役割。数ヶ月前の彼女と表面的な変化は見られないけれど、調整によって感情を完全に消し去られ、どのような環境下にあっても感情が育たないように改造を施された。クロエはその事を酷く嘆いている。
 彼女が受けさせられたのはロボトミー手術だ。感情を司る脳の前頭葉を物理的に除去するもの。さすがに私も憐憫を感じざる得ない。けど、ある意味では都合が良いとも言える。彼女に感情があると私の目的が達成し辛くなる。

 日が暮れ、漸くアインツベルンの城がある冬木市郊外の森へ続く国道へ入った。それから数時間後、冬木の街に入った瞬間、私は遥か遠い空に人工物では無い飛行物体を目視した。
 
「止めて!!」

 セラが車を停めると同時に私は車中から飛び出した。
 
「サーヴァント!!」

 私の目は夜闇の中でありながら数キロ先を飛行するサーヴァントの姿を捉えた。

「地上に降りる! セラ、リズ、向かうわよ! 場所は――――」
「冬木市のマップ情報によれば、あの位置は深山町の運動公園であると考えられます」
「オッケー! 行くわよ!!」

 私が車に戻ると同時にセラはアクセルを強く踏み込んだ。それと同時に車に施された魔術が発動し、制限速度を遥かに超えながら、あらゆる視界から私達を乗せた車が姿を晦ました。
 セラはまるで何年もこの街で生きて来た地元の人間かの様に冬木市の道を熟知していた。ブレーキを殆ど踏む事無く、目的地へ向かい車を疾走させる。

「ここで止まって」

 目的地から五百メートル離れた所で車を停めさせた。

「ここからは足で行くわ。あなた達はここで待ってなさい」
「……承知いたしました。御武運を」
「ええ、行くわよ、バーサーカー!!」

 二人に背を向け、風の様に走る私の横をバーサーカーは実体化して並走した。五百メートルという距離をほんの数秒で走破した私達はついさっき、国道から見たサーヴァントが他の二騎のサーヴァントと睨み合っているのを見つけた。

「ほう、また別のが現れたか」

 金色の鎧を身に纏い、双剣を握るサーヴァントが私達を見咎めると、黒塗りの剣を背負う筋骨隆々の男と赤い髪の女の視線を私達に集まった。
 バーサーカーは瞬時に前に躍り出て、三体の英霊を睨み付ける。すると、何がおかしいのか、金色のサーヴァントが嗤い出した。

「汚物に塗れた聖杯など、一欠片の興味も無いが……、なるほど、この戦い自体は良い。実に良い趣向だ! 宝を求め、英雄同士が覇を競い合うは素晴らしい! 何故、生前思いつかなかったのかと歯噛みする程だ。我は今、かつてない喜びに感動している!!」

 哄笑する彼に私は呆気に取られるばかりだったけれど、彼と睨み合うサーヴァント達は互いに彼に負けぬ程の笑みを浮かべていた。
 
「確かに、こうして国を越え、時を越え、武を競うこの戦いは悪くない」
「まるでお祭り騒ぎだね。いいよいいよー! ボクはお祭りが大好きさ!」

 傲慢な笑み、獰猛な笑み、天真爛漫な笑み。私のバーサーカーもどこか楽しげな雰囲気を感じる。言うなれば、猛々しい笑み。
 彼らは一様に武を競うこの戦争に悦びを感じている。これが英霊。伝説にその名を刻む英雄達。正直、理解出来ない。
 
「抗う事を許す! 我を存分に愉しませろ、雑種共!」

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